扉はたたけば開かれる。

皆さんは、聖書を読んだことがありますか?

 

日本にいるとなかなか目にする機会は少ないと思いますが、

近くの教会に行けば手に取ることができます。

海外の多くのホテルの引き出しには装填のきれいな聖書が入っています。

 

私はキリスト教信者ではありませんが、

幼少の頃からキリストの教えに触れてきました。

 

マタイによる福音書7章7節に、こんな言葉があります。

 

求めなさい、そうすれば与えられます。

捜しなさい、そうすれば見つかります。

たたきなさい、そうすれば開かれます。

 

何となく意味はおわかりになりますでしょうか。

普段から実践しています!という方はいらっしゃいますか?

 

求めれば与えられる。

一体何が与えられるのでしょう?

 

与えられたいと思ったら、自分の意思をはっきりと伝えることが大切です。

マズローの欲求5段階説ではありませんが、最下層の低次欲求で人はとにかく自分のしたいことしか求めていません。

 

うんちしたい!ご飯食べたい!!寝たい!!!

 

生まれたての赤ちゃんならこれでいいのです。

まずは自分勝手に求め続けることでお世話をしてもらえます。

 

身体的に成長し大人になるにつれて、

自分の意思を伝えるのは簡単なことではなくなってきます。

時にはワガママだと叱られたりもします。

 

ワガママは言ってはいけないのだ、周囲に合わせることが美徳なのだ。

という押し付けに従いながら、フツーの大人に、なっていきます。

 

そのうち、何も求めなくなる。

誰かがあてがってくれた生活を受け入れ、文句の一つも言わずに暮らす。

一生懸命勉強をして、良い大学に合格し、良い会社へ入る。

 

果たして自分で選んでさえいない人生が、楽しいものといえるでしょうか?

 

歴史上の偉人や、世界各地にいる大人物。

そのほとんどが、逸話を持っています。

 

『バックパッカーとして世界一周をした』

『学生のとき、大企業の社長に経営のノウハウを教えてもらおうと押し掛けた』

『旧態依然としたものをひっくり返した』

 

なぜそんなことをするのか。

長いものに巻かれていれば火の粉を浴びたりしないのに。

 

彼らはきっとこう言うでしょう。

 

【そんなのつまんない!

【人生は一度きり!】

 

と。

 

求め、捜し、たどり着いた場所こそ、

自分だけの人生を創り出せる場所なのかもしれません。

だからといって、誰にでもそんな芸当ができるというわけではありません。

上司に盾ついて左遷されてしまったり。

故郷から遠く離れてホームシックになってしまったり。

 

やっぱり、長いものに巻かれて適当に過ごしていた方がいいんじゃないだろうか。

その方が楽なんじゃないのかな。

 

確かに、そのような考え方もあると思います。

それで満足される方はそれでいいのだと思います。

さらに、求めたり捜したりするのが怖いという方もいます。

 

決して無理強いなどしませんが、

今の生活に少しでも不満があるのなら、扉をたたいてみてもいいのかもしれません。

 

イメージしてみてください。

 

あなたの前に、一枚の扉があります。

その扉の向こうには、あなたが求めていたものがあります。

ですが、その扉は一分の隙間もなく閉じています。

押しても引いても、びくともしません。

あなたは、せっかく扉を見つけたのだから

その向こう側へ行ってみたいと思っています。

捜しつづけて、やっと見つけた扉だから。

意を決して、あなたは扉をたたくことにしました。

『コン、コン、コン』

すると、扉は音もなく向こう側から開き始めたではありませんか。

そうなのです、扉の向こうにはあなたを待ってくれていた誰かがいたのです。

その誰かが、あなたのために扉を開けたのです。

あなたの、勇気を持った行動に、応えたのです。

 

さて、今や扉は開かれました。

あなたはその一歩を踏み出すでしょうか。

それとも怖気づいてしまうでしょうか。

どんな選択をしようとも、扉をたたいたことには違いありません。

たたいたからこそ、開かれた扉は、

実はあなたがあなたの手で開けたのと同じことなのです。

 

セラピーやカウンセリングは、このようなこととよく似ています。

その理由は、セラピーやカウンセリングがもともとカソリック協会の告解部屋から始まったからなのかもしれません。

 

セラピストやカウンセラーが何かをするのではなく、

あなた自身が私たちを動かすのです。

 

私はいつも相談を持ちかけてくれた方々に感謝をします。

胸の内を話してくれてありがとう。